高山に棲むニホンライチョウは、皆さんご存じのように季節によって羽の色を変えます。もちろんカメレオンみたいに色そのものが変わるわけではなく、季節の変化に合わせて年に3回生え変わるわけです。そのような事から白く染まるという表現よりもっと生物学的に書く方が彼らライチョウを伝えるには本来は良いのだと思う。しかし実のところ私は、ライチョウに対してあまり科学的に捉えてないのかもしれない。事実、当たり前のようにライチョウは鳥ですが、自分はまあ鳥とは捉えてないようなところがあり、ライチョウと同系列で捉えて好きと感じるのは他の鳥類ではなくて哺乳類になります。かといってもちろんライチョウは哺乳類とも違う。要するに、私の頭の中ではライチョウは鳥類から離れた独立した分類の生き物になっているのです。

白いライチョウが一番好きだ。なぜなら白くなると共に神に変化した姿と思っているから。
でも、そうではないですか。鳥なのに趾まで羽毛に覆われて、鳥なのに一般には飛ぶ姿は見かけ難いかもしれない。かといって歩きが達者かと言えばそうではないと思う場面が多数。結構斜面で転がり落ちたり、つまずいたり、ジャンプで目測誤ったかのようにずっこけたり。このような訳で、わたしの中では鳥でもない固有の種別に位置するのです。ただ、そんな彼らのイメージが一転するのが、この山岳一帯が白く雪化粧する季節。景色に合わせて保護色として全身純白になるのですが、実は変わるのは見た目だけではなく中身も変化するのです。もう、ここまで書くと、どこまでライチョウを茶化しているのかとも思われそうですが、彼らの魅力はこのずっこけ性と、相反する冬山での逞しい生き様と感じます。彼らは氷雪と氷点下で生き抜く機能が体に備わっているのです。足の爪は極めて鋭く、氷雪の斜面も平気で歩けますし、新雪のふかふかの雪でも体が沈まずに歩けます。それは羽毛で覆われた脚がかんじきの役目もするからです。羽毛はかなり密らしく、氷点下で生き抜くにはそうなのでしょうが、地肌が見える事は無さそうです。さらにもっと密なのは、羽根一枚が枝分かれして2重構造にもなっています。

ナナカマドの赤い実を食べたくて細い枝に飛び乗ったものの届かなかった。
おまけにバランス崩して枝につかまるのがやっとの図。
我々などは雪や強風の中、たまに震えながら彼等を観察するのですが、彼らはどうでしょう。そんな姿は一切見せない強靭さが伝わってきます。我々は強風や降雪や濃霧での視界不良のような状況で情けない姿しか見せられない中、彼らは凛として佇み、神々しさを放ち、他の季節よりも最も逞しいのです。その姿は鳥類を超えて、しかもほ乳類でも無く、その姿は、霊長類と思い込んでいる我々より遥か上に立つような生き物になるのです。

視界がほぼないある朝、かろうじて見えるように現れた姿に神を感じた。
お分かり頂けましたでしょうか?彼らの魅力は、何かずっこけた面白くもかわいい姿であり、分類を超えた最強の姿でもあるのです。私は前者のように、良く彼らの姿を笑いに変えたりしますが、本当に馬鹿にはしていません。最強な生き物だからこそ、そういう相反する部分を愛情に変えて表現します。まあ、彼らにしてみれば、「あいつ、また自分たちのズッコケたようなところを笑っている」なんて思っているでしょう。でも、彼等にもちゃんと伝えるならば、「36年もあなた達ライチョウを馬鹿にする根気は無いですが、神のように崇めるように好きだから未だに写真を撮ってアピールさせてもらっています」と。
随分と話が逸れてしまいましたが、彼らはこの季節、体を純白に染めて神の鳥にふさわしい奇跡の鳥に変化します。その能力は、我々を遥かに超えた領域です。私はこのように彼等を勝手に作り上げているのかもしれない。しかし、科学的なものよりも感覚的に捉えることで彼等を生涯気にかけて、彼らニホンライチョウを好きでい続ける事が出来ると思っています。感覚的でありながらも、かわいく逞しく神秘の神の鳥であることが私の見る彼らの魅力であり、守る為に伝え行きたい姿なのです。

夕日に照らされた氷結した斜面を変然と歩く。彼の趾には猛禽類のような鋭い爪が備わっている。
※いまニホンライチョウは絶滅が心配されていますが、それは彼らの生きる能力の低さではなく、急激に変化する環境に対応不可能に陥るからです。そして、温暖化、気候変動と同じ意味ですが、原因は100%人間活動が原因です。彼らが高山で生き抜く能力は他の動物は真似など出来ていませんが、彼らライチョウは生まれながら備わっています。その彼らの生活環境を今後30年程度で激変しかねないのが温暖化、気候変動であり、そうさせている根源は今の我々の生き方です。また、登山者が頑張っても我々は道具によって彼等と似たように行動できるに過ぎないのです。