もう、39年も彼らと向き合って写真を撮っています。
これだけ撮っていると飽きそうなものですが、なかなか写真が上達できずに下手なままなので困ったものです。でもそれがライチョウ写真と向き合う原動力になっています。
それから、体力も低下しますので、だんだん楽なことし手撮ろうとするので、ますます昔の自分を越えられないのです。まあ、これも原動力になっているのでしょうかね。自分自身が目標なのです。やっぱり、ライチョウとは縁が切れずにいます。
ところで、長年ライチョウト関わっていると、だんだん彼らの周辺事情も気になりだしてきます。絶滅の心配はもちろんありますし、そのための保護のこともとても重要なことがらです。でもそれと同等にまだ私は気になることがあるのです。
それは、彼らを取り巻くというか、彼らを尊い存在として崇めてきた、我々の先祖であり、それを受け継ぐ我々のことでもあるのですが、その過去に興味を持ちます。それは今いろいろ文献を読んで理解しようとしているのです。
歴史の難しいのは、見てない世界を見なくてはいけないのと、先祖の心を理解することです。自分を捨てなくてはいけないというか、自分の感覚で見ようとすると何も見えない。自分の心で理解することがあれば、先祖を蔑ろにしてしまいます。
歴史は常に動いています。なので解釈の仕方も変化しますが、ここで一つ立ち止まる必要があるのは、果たして、我々の時代と認識だけで、解釈を現代的に理解してもいいのか画難しいのです。事実、歴史探訪では事実誤認もあります。それも致し方ないでしょう。しかし、過去の歴史や思想となると、事実誤認ではなく、我々が正しくない解釈をしてしまう危険もあるのです。特にライチョウは信仰と関わり、人の心に深く浸透していたのです。簡単ではないのです。
歴史を探るには文献がとても重要です。解読から始めたいとわからないものもあります。また書いてあることが確認できない、理解できない時もあります。しかし、昔の人々を理解するならばきっと私も理解できそうに思います。
少なくともライチョウは不思議な力を持った鳥です。まず、彼らを大切にして、彼らを理解すれば自ずと昔の人々も心も理解できるはずです。いや、その心を引き継ぐことが第一歩なのかもしれませんね。