若い頃、私はライチョウに興味を持ち山に入りました。いつしか夢中にライチョウの姿を追っていたのです。無名も未熟も気にせず、ただその姿をカメラに収めたくて、夢中でレンズを向けていたのです。知識も技術も十分ではなかったが、胸の奥に燃えるような衝動があった。振り返れば、あの熱は人生で一番純粋だったかもしれない。

不思議なもので、当時撮った写真はいま見ても、自分ではもう超えられないと思うことがあります。技術も経験も増えた今のほうが“うまく”撮れるはずで、何より今の優秀な機材を駆使すれば、かつての写真は越えられないはずがないのです。しかし、当時の写真にはどうしても届かない感覚があるのです。理由は分かっているというか、常に感じていることがあるのです。あの頃は、ただただ心のままにシャッターを切っていた。思いだけが羅針盤だった。
技術だけではない、むしろ、理屈でない“熱量”や“思い”が、作品を作り上げると感じる。その当時は、明らかにその熱量が今を超えていた。だから閃きだけで撮れたし閃きだけで一枚の画になっていたように思う。私はいまこうしてライチョウの話を書いているが、心の奥底にはいつも、かつて山で出会った当時の彼らと、あの時の自分がいるのです。

あの頃の自分は逆に文章などまともなことは書けなかったかもしれない。なぜなら理論も理屈もなく撮っていたし、撮ることが全てだったからです。
歳を重ね、カメラを構える思いは落ち着いたかもしれないが、あの頃のまなざしは、ずっと心の中で生きている。でも、まなざしは同じつもりでも、その熱量が違うのだろう。かつては粗削りながらも写真は躍動していたと思うのです。そしてそれでもさまになっていたのです。今はそのような写真は撮れないのは寂しくもあるが、それでもかつての写真は今でも彼らは語り掛けてきてくれているのです。それはとてもありがたいことであり、ライチョウの奇跡なのかもしれない。

若さゆえの感性は確かに存在する。それを生んだ一瞬の一瞬の衝動を、私は大切に胸にしまい、今また新たなライチョウの側面を見つめようとしているのです。




