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どうぶつのくに どうぶつえんとすいぞくかん

Vol.36 子鹿、からだの記憶、いのちのほとり。

2014.6.4

 肌寒い日が続き、5月下旬だというのに雪が降ったり。
じわじわとふくらんでいた木々の芽は、膨張をやめて辺りをうかがっていた。
しかし、気圧配置図から寒気が退いた直後、急に気温は27℃まで上昇し季節は春から初夏へ。
うらうらとした季節の始まりを新緑の鮮やかさや、いくつかの花が祝福を伝え、カエルもワシも魚も、いろいろなものが出産を迎え、生まれたものは新しい世界を瞳にとらえる。
初めて見る世界の広さと、驚きと、美しさ。

鮮やかなキビタキが新緑に歌う。

 草原や湿地や溪の陰になった所で( 窪んだ場所を通りかかったり、ひときわ大きな水芭蕉の葉の裏だったり、古木に生えている野生の椎茸に手を伸ばそうとした拍子に )大きく真っ黒な瞳と目 が合ってしまうことがある。
大抵は音も、匂いもなく、じっとしていて、初めて見る二足歩行の生き物がこのあとどうするのか?を固唾を飲んで見つめている。
よほど距離を詰めなければ、走り出すことはない。
走る、とはいっても生まれて暫くのあいだは四肢をふんばってのヨチヨチ、ヨロヨロにすぎないが。
子鹿は産まれた時点でそれなりにサイズが大きく、頭が小さいぶん全体の華奢さが強調され、手脚が親と比べると不釣り合いに長く感じる。

茂みに隠れ潜む子鹿、母鹿が戻るまで動かない。

 以前ガイドの仕事中、お客さんを二人くらいエスコートしていたと思うが、産まれて間もないらしい子鹿が、僕にヨロヨロとついてきてしまった。
水芭蕉の群生の陰から出て来て、ずっとついてくる。
引き止めるのか、歩く速度を落としてと懇願しているのか、僕のジーンズの裾をかるく噛んだりしてまとわりつく。
「動物に近すぎる接点はあまりいい結果を招かない」関わる者の常識として無視を決め込んでいたが、50m、100m歩いても、ずっとついて来てしまった。
少し焦ってきた。
黒く大きな瞳に長いまつげ、甘えるような仕草に僕の心は完全に射抜かれていた。
もはや親鹿の心地。
一方で、ちらちら足元を横目で見、子鹿を覆う不吉な背景に思いを巡らせていた。
母鹿は、歩けるようになるまで子を物陰に隠し、離れて餌を求めたりして日々の生活を送る。
度々、戻って来て乳を与えたりするのだが、あまりにも母親の帰りが遅いので、子鹿はこらえきれずに出て来てしまったのだろう。
あるいは母をあきらめ、すでに自分の運命を悟り、意を決しての行動だったか。

手厚く世話をしてもらえる時間は短い。

 出産期は、鹿にとって無防備で危険な時期であり、優秀なハンター(善き父や善き母)のヒグマやキツネもそれを心得ている。
母鹿に何かあったのかもしれないし、ただ帰りが遅くなっているだけかもしれない。
今はもう夕方だ、地平線の近くから斜陽が差し込み、気温は僅かに低くなり始めている。
間もなく大気から雑音が消え失せ、ハルゼミの幼虫が暗い土中から湧き出てくるだろう。

 

 

 200m程ついてきたところで僕は子鹿を抱き上げた。
人間の匂いを身体に付けるのは良い事ではないが、最低限の選択肢を増やしてやる事は子鹿にとって悪いことではない。
長い脚を腕の中でばたばたさせる姿は愛おしいものだった。

雨の日、白い筒状のシウリザクラが花開いた、これも桜。

こういう事は人生に何度もあることではない。
腕と、手のひらに伝わる筋肉の動きや温度を自分の身体に留めようと、存外に軽い体重を、確かめるように少し強めに抱いた。
ばたばたの脚は間もなく静まり、子鹿は安堵の表情を見せる。
腕の中の子鹿は、吐息か身体の温もりかが微かに甘い匂いがした。
そして最初に出会った場所へ戻ると、子鹿を水芭蕉の陰へそっと置き、僕は走り去った。
その後、どうなったかは知らない。

出産直後、胎盤を食べる母鹿。
血の匂いが災いをもたらすのを知ってか、単に滋養としてか。

母親がひょっこり戻って来たかもしれないし、たまたま通り過ぎた他の母親についていったかもしれない。
ヒグマの家族の食事となり、お腹を満たした子グマが「おいしかったね」と母グマに甘えていたかもしれない。

動物の多くは白黒で世界を見ているという。
赤茶は周囲の緑と同程度の明度で、白点は葉の表面の照り返しを再現した偽装色。
試みに画像を白黒変換すると、効果がわかる。 

しかし、他の誰でもない僕を選んでついてきて元居た場所へ戻される、というひとつのハードルをくぐって生き延びた子なのだ。
そこから先の生涯も、恐らくあっただろうと思うのだが。

著者プロフィール

八木直哉(やぎ・なおや)

1975年北海道生まれ。
写真家。動物、魚類、鳥類、両生類、昆虫、などを撮影している。
北海道の本来の野生と人の関わりの痕跡が現在のテーマ。
愛用の機材はNikon F5 F100 FM2 D300

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