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どうぶつのくに どうぶつえんとすいぞくかん

Vol.93 らしくない冬。

2019.3.18

 まだ完全に終わってはいないが、あまりに雪のない冬だった。
路上に雪はなく、森の中は堅雪で、僕はしばしばカンジキを付けずに歩いたりしていた。
率直にはつまらない。
けれど。
いきものによっては楽に過ごせる恵みの年なんだろうし、つまらないで済ませてはいけない、とも思う。

モモンガのフンとマツの葉を食べた痕跡。
よく探せば結構見られるが、雪解けの下から出てくるものもあり、情報としての鮮度の見極めが大事。

 僕は、町のコンビニへ立ち寄った時の馴染みの顔や、知り合いとすれ違う時には挨拶的なセリフをある程度決めている。
今冬使う頻度が多かったのは「雪が少なくていいね」とか「雪が少なくて暮らしやすいね」だった。
冬が好きなので本心ではないが、この言葉には相手への気遣いと、個人的な興味としての質問が混じっている。

独特な音を出す事があり、明らかに威嚇の場合もあり、意図がわからない場合も。
この個体は気のせいかもしれない‥くらいの小さなムゴムゴムゴ‥のような声(?)がずっと聞こえていて、音源を辿ったら目が会ってしまった。以来の付き合い。

例年であれば週末毎、大掛かりに行われる町の除雪・排雪も一度くらいしかなかったので町の生活が過ごしやすかったのは間違いない。
だが「暮らしやすくて‥」への返事は大抵の場合、渋そうな表情でうーん、と返答に困っているふうの反応の町の人が多かった。
(漁師や自然ガイド、写真家とは生活の違う、自然の中や森へあまり行くことのない方々をここでは便宜的に町の人、という言い方をする。)

トドマツの葉はよく見ると中央に芯があり、葉と芯で構成されている。
モモンガが食べるのは芯を残した柔らかい部分で、食べ終えた芯が口元に垂れている。

仮に森や自然へ分け入らなくても、知床では普段の生活で車道から木々は見えるし、クマやキツネだってたまには見かける。
秋になれば遡上するマスやサケが橋の上から見え、漁師からは漁業の推移を立ち話から得る。
なので、町の人も自然を気にしていて、雪が降れば冬らしさを感じ、たくさん降れば大変で手を煩わされるものの、気持ちのどこかではそれを望んでいて。

久しぶりに森に雪が降った。

雪が降らない事が良い事、とは言い切れない感覚を持っているようだ。
それを町の人の自然への愛情、と捉えれば、僕はそこに共感し、嬉しさを感じる。
一方で。
人間を含めたいきものがそこに棲むのはなぜだろう?と考えた時、最初に思いつく答えは「そこが棲み易いから」だが。

大抵の場合多数で共に暮らし、それぞれの仲は良いようだ。
多分に寒さと関係があるが、気温の低い冬は集団を形成し、暖かい冬は単体での活動が目立つ気がする。
どちらにしても森中の樹にねぐらがあるので恐らく皆が顔見知り。 

けれども、多くの観察から出る答えは違っていることも多く、色々な意味で険しく、リスクを孕んでいるケースもあり、相反は常だ。
囚われる事情がある、という事のようにも、理想郷などない、という事の証明にも思え。
説明の必要もなく、北国の生活は厳しい。
そういった事を整理すると、棲み易さとは、日々あらゆる手を尽くせる自分が居る、という事なのかもしれないし、対応の難しさが過分になれば、野生動物も人も、きっと姿を消すのだろう。
ここに悲しいでもなく、寂しいでもなく、胸が少し透くような、なんとも説明のできない感覚を僕はいつも抱いている。

ねぐらから出て、最初にする仕事はおしっこ。(お尻の下の樹皮が濡れている)

更に、考え過ぎと言われればそれまでだが、町の人の反応はもう一面を捉えているようにも考えられる。
ここ数年、傍目にも明らかに雪も流氷も減っていて、それが留まる気配はなく。
単に環境や過去への郷愁などではなく、これからももっと雪が少なくなってくる予感や、その何かしら怖いような違和感が町の人の意識に混じっているように僕は感じる。
渋そうな表情は、こういった諸々の綯い交ぜなのかもしれない。

手に取ったマツの葉を食べ終えると、次の葉に手を伸ばして手折る。
様々な生活条件が存在するが、僕の観察する場所は葉が密生した低い若木が多く、フクロウなどの襲撃を避けていると思われる。

 忘れかけていた冬が急に慌てて戻ってきたように、昨日まで、まとまった雪が降った。
二日間ほど降り続いたが、この原稿を書いている今日は快晴で、雪は止み、気温も高い。
しばらく撮影やガイドの仕事が続いていたので今日は外出をやめ、原稿を書いている。
全ての生き物は例外なく毎日「終わる」。

 

 

時間を過ごす、という事はその時間はそれが一秒であれ、二度と戻ってはこないし、今現在、自分の体を動かしている多くの細胞も、間違いなく減衰し、死に続けている。
時間の概念に併せれば、昨日の僕は既に終わったが、今日は生きていて、明日が来て呼吸をしていれば明日も生きているだろうが、生命は突然に終わってしまう事も無くはない。
何にしろ、全ては終わり続け、変わり続ける。
写真の良い点は、そういった過ぎてしまう事、二度と巡っては来ない時間を一枚に残せる点だ。

降り続ける濡れ雪が体毛を濡らす。

これまで僕は、いきものに合わせて生きてきた。
生まれた時からと言ってもいいし、それ以外をうまくこなせる気もしなかった。
僕の、いきものとの関係は、子供の頃からいろいろな人が褒めてくれた結果だ。(多分、そこしか褒められる部分が無かったのだろうと推察する)
自分なりに人事は尽くしているが、単なる運、とも言える。
求めるイメージはあるものの、これからも、人事を尽くした後に生じる状況に合わせて過ごすだけで、自ら何かを決めたりはしないし、決められはしない。

濡れ雪を避け、雪で覆われたマツのテントの下で食事。ちょっとふてぶてしい?

結果は「終わった」後のオマケだ。
何かしら評価があれば、それは嬉しいし、評価は仕事のみならず、親しい友人とのくだらない会話だったりもする。
自分と同じくらいの意識や、技量を持つ友人と会話ができるのは最高の結果と思うし、その世界で食べられるなら尚更。
しかし、僕の優先はあくまでいきものの近くで過ごし、眺め、彼らの生活に思いを馳せる事であって、それ以外は嬉し(過ぎる)いオマケだ。

イヌは雪を喜ぶし、ヒトも雪に気持ちが上がる。
モモンガ的にどうなのかは知らないが、もっと雪が降ればいいなあ。

単に気乗りのしない易しい冬、として過ごしてしまえば、きっと時間を無為にしてしまう。
これはこれで人事を尽くし、いつもとは違うアプローチを意識し、厳しい冬には無い気持ちや身体の余裕は今まで手が届かなかったどこかへ振り分け、いつかまた来る冬に着々と備えるだけだ。
僕は、いきものと共に。

著者プロフィール

八木直哉(やぎ・なおや)

1975年北海道生まれ。
写真家。動物、魚類、鳥類、両生類、昆虫、などを撮影している。
北海道の本来の野生と人の関わりの痕跡が現在のテーマ。
愛用の機材はNikon F5 F100 FM2 D300

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