日本全国の動物園と水族館をつなぐ情報誌、「どうぶつのくに」「どうぶつえんとすいぞくかん」公式Webサイト

どうぶつのくに どうぶつえんとすいぞくかん

Vol.64 閉ざされた氷期の記憶。

2016.10.6

10月になると一部の高山では雪が降り、北海道の山間部はかなり冷え込んでくる。
日中と夜の寒暖差は大気の不安定さの象徴でもあり、雪を含んでいるかもしれない重そうな雲と、隙間から差し込む光が代わる代わるやってきては地表を温め、また、冷やす。
ウエットスーツを着込んだ僕は、底冷えのする湖畔から渓流へ、重いカメラ機材を持ち、伝い歩く。
吐く息は白く、山上湖に流れ込む渓流はすでに10度を切るようになり、身を浸せば痺れるような冷たさだ。

8月末、河口周辺に集まってきたミヤベイワナ。

8月末、河口周辺に集まってきたミヤベイワナ。

フィルムカメラを使っている時代から通っているこの場所へ、もう何年、何度通っているだろうか?
デジタルへ移行し、レンズの設計も次々と変わり、自由度が上がり、思った事が出来るようになり‥。
とは言っても資金面の問題は大きく、機材の更新は遅々として進まず、今日に辿り着くまでに時間がかかってしまった。
しかし、それまでの時間をかけた苦労や試行は、地道な調査にかける時間を与えてくれたし、土地への理解も深まった。

湖の透明度は高く、美しい水をたたえている。

湖の透明度は高く、美しい水をたたえている。

「ミヤベイワナ」という風変わりな名前を持つ魚がいる事を、図鑑を眺める事が好きだった僕は、随分前から知っていた。
僕の育った道南は温暖で、イワナは居るが、極冷水を好むオショロコマは生息しない。
図鑑を眺めてはオショロコマの赤い身体や、朱点の美しさに惹かれ、きれいな魚が居るものだと、まだ見ぬ魚に想いを馳せていた。
どの図鑑を見ても、オショロコマのページの後には必ずミヤベイワナが紹介がされていた。
そして、今にして思えば当時、図鑑上でミヤベイワナの美しさを忠実に表現した写真は皆無だった。

時期が早く、まだ色彩が穏やかな個体。

時期が早く、まだ色彩が穏やかな個体。

 8月の終わりだったと思う。
最初にミヤベイワナの撮影に訪れたきっかけは、単に名前を知っている魚の撮影をしてみようと、ただそれだけの動機だった。
まだ素潜りで使う道具もこなれておらず、腕が半袖の2mm程度の薄いウエットスーツを着ていた。(素潜りの最初は海パンでやっていたため、そんなのでも暖かく感じたが、今では寒くてとても使えない)

遡上が始まると、一気に森を貫く流れを遡る。

遡上が始まると、一気に森を貫く流れを遡る。

澄み切った湖へ潜り、流入する川の河口部へ進む。
流れ込みのえぐれや、絡み合った水中の木の根などを丹念に探すと、イワナ属特有のヒレの白いふちどりが、暗い中に数匹分うっすらと見えた。
ゆっくり、シュノーケルでの呼吸回数を落とし、息を深く吸い、静かに接近する。
「なんだ、これは?」僕は眼が点になった。
白く、ふちどられたヒレが付いている胴体がエメラルドのようだ。

陽光に舞うミヤベイワナ。

陽光に舞うミヤベイワナ。

しかも、エメラルドの中に煌々と朱点が浮き、輝いている。
サイズも大きく、がっしりとしていて、こんなイワナは始めてだった。
僕が見た事のある図鑑では、これほど美しい色彩が描写されているものは無かった。
そして、夢中になった。

産卵の為、砂地の穏やかな流れに定位する魚群。

産卵の為、砂地の穏やかな流れに定位する魚群。

フィルム時代の道具では、完全な再現は難しかった。(だからこそ、図鑑にも無かったのだろう)
偏光フィルターを付けて魚体の反射を抑えてみたり(暗い水中ではストロボ使用が前提になるため、見たままの色が出づらい)無理をして高価なレンズを買ったり。
どんなに高価でも、買って使ってみるまでは、撮影に対してそのレンズが最適かどうかはわからず、ノウハウの構築はリターンの悪い博打のようなものなのだ。
予算的にも、ワンシーズンに何本ものレンズを買って試せるわけではなく、駄目の連続。
それが今、完璧ではないけれど、目標の表現にかなり近付く事ができつつある。

そこかしこに倒木が倒れ、流れに変化を与えている。

そこかしこに倒木が倒れ、流れに変化を与えている。

 ミヤベイワナは本来、海を回遊し川へ産卵の為に、サケのように遡上し、卵から生まれた稚魚は、成長のために川から海へ降る性質を持つ。
そのミヤベイワナを、15,000年前の急激な地殻変動(噴火により、川がせき止められたと考えられている)がすっぽりそのまま湖に閉じ込めた。
現在、ミヤベイワナはその湖を海に見立て、湖で育ち、大型化し、流入する川へ遡上して産卵をしている。
これが亜高山ではなく、水温が高い土地であったなら、そして湖の水深が浅いものであったなら、彼らは普通のオショロコマになっていただろう。
幾多の偶然を重ねて、当時の生活が保持されたのだ。

気温が下がり、水は冴え、色彩が極まってきた。

気温が下がり、水は冴え、色彩が極まってきた。

北極や北半球上部が起源のオショロコマは、寒冷な氷河期に海を回遊し分布を広げ、氷河期の終わりに海水温が上昇し「海」を失って川に棲み、現在の形質に行き着いている。
ミヤベイワナとオショロコマは亜種の関係ではあるが、この事からミヤベイワナが祖といえる。
今から時間を遡って、最後の氷河期が一万年ほど前だというから、古代をそのまま封印したといっても過言ではない。
ちなみに、その時代の北海道はマンモスとナウマンゾウが入れ替わり、旧石器時代の北海道人?が2種の象を狩猟し、食べ尽くす頃だ。

美しい色彩は保護色でもある。 夕暮れ、ストロボの光量を薄闇程度まで落として撮ると、水界に紛れる様子が写った。

美しい色彩は保護色でもある。
夕暮れ、ストロボの光量を薄闇程度まで落として撮ると、水界に紛れる様子が写った。

僕が惹きつけられたエメラルドの色彩は、水温の低い湖水や透明度の高い水の色を反映したものなのだろう。
原生の山上湖に閉じ込められたミヤベイワナは、地殻変動や気候の変化を、重なった偶然によって乗り越えた果てに、宝石のような美しさと、本来の性質を永くに渡り維持してきた。
冬の気配と共に水温も下がると、北方由来の冷水魚の本領を発揮し、色彩は劇的に鮮やかさを増してゆく。

星々が舞う、ミヤベイワナの棲む湖水と空。

星々が舞う、ミヤベイワナの棲む湖水と空。

何かの雑誌でロシア・カムチャッカに生息する降海型オショロコマを見たが、ミヤベイワナの色彩と顔にそっくりだった。
身も凍る冷水の中、ミヤベイワナのエメラルドグリーンと、鮮やかな朱点をファインダー越しに眺めている僕の脳裏には、針葉樹林タイガの広がる彼らの故郷、極東ロシアの原生林が広がっている。
ヒグマやヒョウが闊歩し、自然の畏れが未だ色濃く残る土地へ、イワナは僕を誘っているだろうか? そして、僕は彼の地へ行くだろうか?

 

著者プロフィール

八木直哉(やぎ・なおや)

1975年北海道生まれ。
写真家。動物、魚類、鳥類、両生類、昆虫、などを撮影している。
北海道の本来の野生と人の関わりの痕跡が現在のテーマ。
愛用の機材はNikon F5 F100 FM2 D300

カテゴリー

カテゴリー一覧

このカテゴリーの他の記事

ページTOPへ

Copyrights © 2010 Doubutu-no-kuni All Rights Reserved.
誌面、Webにおけるあらゆるコンテンツの無断複写・転載を禁じます。