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どうぶつのくに どうぶつえんとすいぞくかん

Vol.44 海流の民

2015.2.8

 北海道のとある場所。 毎年、一番寒くなる今の時期にトドに会いに行くのだが、今期は冬らしさが全くない。
ある1日に大雪が降り、交通に支障をきたすこともあるけれど、おしなべて暖かく雪量も少なく、遠景の山肌には白さが足りない。

荒々しいが、美しく波が沸き立っている。

荒々しいが、美しく波が沸き立っている。

この地でトドを追い始めて何年か経つ。 と書くとトド撮影のベテランっぽく聞こえてしまうが、冬は日照が短いので1日に数時間、最大で20日程の観察だから、知らない事、わからない事は多く、本当は一年を通して付き合いたいのだが、なかなかそれも叶わない。
観察を始めた頃からを振り返ってみると、段々と気候が変わり、この地域における冬らしさが無くなってきた。
今後、状況の変化は更に激しくなるだろうし、トドの生息や状況にも刻々と変化が生じるだろう。
なので、必ずこの時期にはトド達に会いに行くし、撮影方法の可能な限りの手を尽くして、記録と、彼らから受ける印象を残したいと考えている。

トドのON・OFFは波で決まるらしく、荒ければ出勤、凪であれば休息のようだ。  夜行性という噂も聞いたが、夜間に出勤し、早朝に帰ってくる風景を見たこと はない。

トドのON・OFFは波で決まるらしく、荒ければ出勤、凪であれば休息のようだ。
夜行性という噂も聞いたが、夜間に出勤し、早朝に帰ってくる風景を見たこと
はない。

 全体的な雪は少ないものの、先日くらいに降り積もった粉雪は、かんじきを履いた足を膝下くらいまで呑み込んでいる。
斜面を登りトドの姿が見える位置に近ずくにつれ、居るのか、居ないのか?ちょっと緊張 。
背負った機材を置き、白い偽装スーツを着て準備をする。
すでに生臭いような獣の糞尿臭と、ヴェー ヴェー、という微かな唸り声を耳に感じている。
しかし、この仕事に関して成果の期待は禁物だ。
身勝手な希望は裏切られるのが常で、実況に即して予測と的中、誤測と修正を淡々と進捗させるしかない。
準備を終え、トドからは気付かれないように這いずり、崖下を見下ろす。
――何も居ない、0だ。
心構えをしていたとはいえ、一気に落胆が襲ってきた。暫くちょっとした脱力感に見舞われたが、気を持ち直し、すぐに状況分析を試みる。
波は治まりつつあるが、かなり荒れている。
臭いを感じるのは気のせいではないので、岩場に糞尿が付着しているのだろう。
全景をじっと見つめていると、再び唸り声が聞こえ、目を凝らすと海面から時折顔を出し、声を発している。
こういった「悪い」条件の時はすぐにでも帰って(ビールでも飲んでまったりしたり)しまいたくなるものだが、調査を続け、違う角度から見える場所等もザイルを使い下降し、実況検分を続けた。

岩礁まわりの白波の、巻き込みを楽しむトド。  僕は中学生くらいの時に泳いでいて、岩礁まわりの白波に巻き込まれたことがあるが、ぐるぐるともみくちゃにされた後、ぽーんと岩礁上に打ち上げられた。  ギザギザの岩のために全身は傷だらけのぼろぼろになり、抗うことのできない波 の恐ろしさを思い知った一件だった。  海中生活に必要なトドの体重と、体を保護する長めの毛並みに納得。

 岩礁まわりの白波の、巻き込みを楽しむトド。
僕は中学生くらいの時に泳いでいて、岩礁まわりの白波に巻き込まれたことがあるが、ぐるぐるともみくちゃにされた後、ぽーんと岩礁上に打ち上げられた。
ギザギザの岩のために全身は傷だらけのぼろぼろになり、抗うことのできない波
の恐ろしさを思い知った一件だった。
海中生活に必要なトドの体重と、体を保護する長めの毛並みに納得。

 次の日。
今日からは僕一人ではなく、よく撮影ガイドツアーに参加してくれる写真家のTさんが一緒だ。
Tさんは顕微鏡を通し細胞や藻類、微小生物などの写真撮影(誰でも見たことのある教科書に載っているあれだ)を生業としている。
気温は低めで、雪が降ったり止んだりを繰り返し、撮影の雰囲気は充分、昨日からの波は収まった。
これでトドが居てくれれば言うことはない。
「昨日は居なかったんですが‥」と説明しながら歩き、撮影地を目指す。
近くなるにつれ、風に乗って前日より強い獣臭が鼻の奥に届き、唸り声も大きく感じる。
匍匐姿勢で崖下を覗き込むと、一つの岩場に30頭弱のトド群が見えた。
早速、存在をTさんに伝え、ザイルを繋ぎ、三脚を設置して撮影を始める。

 
 岩場に群れるトド。  見える部分には50頭ほど数えられるが、足元の隠れた部分にも数頭いる。  最大では70頭を超えた。

 岩場に群れるトド。
見える部分には50頭ほど数えられるが、足元の隠れた部分にも数頭いる。
最大では70頭を超えた。

Tさんの職場を見たことはないが、彼の望遠レンズを構えている姿を見ていると、いつも覗いているであろうデスクと顕微鏡が浮き上がってくるように感じる。
おそらく、ファインダーを通した画面の隅々までを、僕の想像が及ばないほど注意深く見ているに違いない。
僕にも、そしてほとんどの写真家にとって撮影は孤独な作業ではあるけれど、時々こうやって撮影ツアーを通して誰かと一緒に行動していると、その解釈や感じ方、浮き上がってくるそれぞれの人生の、僅かな部分の印象に静かな刺激を受ける。

年齢に幅のあるグループが何かおしゃべりをしている。

年齢に幅のあるグループが何かおしゃべりをしている。

そのTさんが「あのトドは授乳していますね?」と言った。
正直な所、大小のトドが眠る景色には親子関係を容易に想像できるものの、正確な彼らの関係性についてはさっぱりわからないし、雑多に並んで寝ているだけのように僕には見えている。 望遠レンズ越しのトド群が、Tさんにはうごめく細胞のように見えているのだろう。

 トドの乳飲み子、授乳期間は2年もあるらしい。  サハリン周辺のチュレニー島やイオニー島などが繁殖地だが、海氷期には南下し越冬する。  繁殖地は世界で僅か4ヶ所を数えるのみで、40年前と比べると生息数が80%減少したという統計もある。

 トドの乳飲み子、授乳期間は2年もあるらしい。
サハリン周辺のチュレニー島やイオニー島などが繁殖地だが、海氷期には南下し越冬する。
繁殖地は世界で僅か4ヶ所を数えるのみで、40年前と比べると生息数が80%減少したという統計もある。

僕は確認の為、600mmの望遠レンズを覗きシャッターを押した。
撮った画像を再生し、拡大するとお腹(胸?)のあたりが濡れていて、確かに乳首も写っている。
普通に考えれば小さなトドは子供だが、それが何歳であるかという資料を僕は持っていない(海獣系の詳細な資料は少ない)。
いつも見ている鹿や熊の子の印象を重ねて判断すれば1歳か1歳半だろうか?似た動物のアザラシなんかは授乳が2週間ほどで終わるので、意外な感じがしたし、そんな短期間内に生まれたサイズにも見えない。
そして妙な話だが、トドの乳首というものを想像すらしたことがなかった。
こういう生活史の片鱗を見ると、そのいきものへの理解が、すっと深くなる気がする。

写真を拡大すると乳首が見えた。

写真を拡大すると乳首が見えた。

一見、何かとヴォーヴォー唸り合い、いつもケンカばかりしている荒っぽい印象なのだが、時間をかけて眺めていると言葉と文化が違うだけで、実は会話能力も遊びもユーモアも持ち合わせていて、ちゃんと繊細なコミュニケーションをとっている動物だと判る。

大小入り乱れ、楽しそうに白波に遊ぶトド。

大小入り乱れ、楽しそうに白波に遊ぶトド。

ふりかえって自分達は、複雑すぎてすれちがってばかりいるのを連日のニュースから見るにつれ、知性とは何かを改めて考えてしまう。
本当はこの星の全てが、その仮想的な人間ルールの領有に関係なく、自分達のものであるし、主義や主張、宗教もそれぞれの信奉に過ぎない。
これほどに過酷で無軌道なせめぎ合いを、僕の知る限り、人間世界以外に見つけることは難しい。
人間ルールを構築できる知性が、生物としての優しさや根本のルールの破綻を招いているのは何故なのか?

波が無ければひたすら眠る。

波が無ければひたすら眠る。

著者プロフィール

八木直哉(やぎ・なおや)

1975年北海道生まれ。
写真家。動物、魚類、鳥類、両生類、昆虫、などを撮影している。
北海道の本来の野生と人の関わりの痕跡が現在のテーマ。
愛用の機材はNikon F5 F100 FM2 D300

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